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2013年12月 8日 (日)

可部線73・79形最期の秋~1984年(昭和59年)10月の記録より~

国鉄末期は旧型と呼ばれる車両から新性能とよばれる車両への置き換えが一気に進展した時期でした。

EF58の最期を夢中で追いかけた1984年(昭和59年)2月の改正も一段落したその年の秋、今度は可部線にこれまでごく普通に馴染んでいた73・79形旧型国電が、いよいよ最期を迎えていました。

今月限りに迫った1984年(昭和59年)10月最後の日曜日と、最終日の31日の記録です。

高校1年だった当時、早朝より可部線に乗り上八木の鉄橋へ行きました。

最後の日曜日で、しかもこの場所は当時よく知られていましたが、同業者は到着時点では私だけでした。今なら絶対”激パ”になってることでしょう。

到着するや、上八木側から鉄橋へ駆け上がってくる築堤で構えます。

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澄みきった秋空にツリカケの音色を響かせ、クモハ73・クハ79形が全力で築堤を駆け上がって来ます。

この2両の組み合わせが基本で、各形式10両づつ、計20両がいて、10組の編成がいました。
(だったと思う。)

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こちらは、基本編成×2本の組み合わせ。現在の105系も同様の運用となっていますね。

73・79形の2形式だけといっても、旧63形の特徴をよく残したものから全金属化改造されたものまで多種多様な顔や姿が見られました。この個性豊富なところが旧型の特徴ですね。

撮影をしていると、途中からやって来て仲良くなったお兄さんに、「可部駅構内の踏切から並びを撮らないか。クルマに乗せてやるよ。」と言われ、可部駅まで乗せてもらいました。

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可部駅の踏切に着くと、ちょうど快速「三段峡観光」号が到着しました。行楽シーズンには恒例の臨時列車で、広島ー三段峡間を休日に1日1往復してました。

さすがに駅のホームには同業者の姿がありました。

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この場所に来ることは想定しておらず、望遠レンズを持ってくればよかったと後悔しました。ちなみに、2枚とも50ミリ標準レンズ(もちろんフィルムカメラ)で撮ってます。2枚ともかなりトリミングしてます。

そういえば、当時の可部線は腕木信号機でした。また、全線でタブレットも使用されていましたね。なんだか、すごく歴史を感じてしまいます。自分も歳をとったもんだ。(苦笑;)

それにしてもこの場所、もっと通っておけば良かったと後悔しました。

ふたたび太田川鉄橋へ。

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線路の反対側から鉄橋上を走る姿を捉えました。

背景の山の麓を芸備線が走っていて、可部線と芸備線が最も接近する場所で、その姿が遠くに見えました。

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やはり、それぞれ違った顔をしていますね。

この頃には既に105系も入線していたはずですが、この日はフィルムをケチったのか記録していません。何せ当時は高価だったエクタクロームですからね。最終日の撮影にも取っておかなければならなかったもので。

たしか、夏ごろから105系との置き換えが始まっていたと思います。

そして、いよいよ73・79形最終日の10月31日を迎えます。

もちろん、平日ですから学校があります。当日は学校へカメラ持参で登校。授業が終わると急いで列車に乗り広島駅へ向かい、”さよなら”列車を迎えます。

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可部からの”さよなら”列車742Mが15:25、4番線に到着。

国鉄のJNRマークを型取った大きなヘッドマークを付けてもらっていました。

マークが付くことは事前に知っていたか否か記憶にありませんが、当時は最終定期列車に”さよなら”マークが付けられるのは定番でした。

広島駅はそれなりに同業者の姿は多いものの、平日とはいえ今じゃ考えられないほど平穏なものでした。

まずは人の少ない後ろ(可部側)からクハ79を撮影。前の方に多くの同業者が見えます。

アルミバッグを肩にかけた人が写ってます。当時の鉄ちゃんの標準装備です。5番線には瀬戸内色の新鋭115系3000番台も見えます。瀬戸内色は当時3000番台の特徴でした。(一部、3000番台のクハと組んだ111系モハに瀬戸内色化したものがいましたが)

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2番線東方突端に移動し、約5分後、広転へ引き上げる姿を撮影。

脇にDE10が見えます。当時、多く存在した客車列車の広島駅と広転との移動をエスコートしたり、芸備線の客車列車を担当していました。たいていどこかのホームの突端あたりの留置線で休んでいました。


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最後に後ろ姿を撮影。

広島駅構内に最後のツリカケ音が響きました。

誰かが「さよなら!」と叫びました。

その声につづき、周りのみんなも堰を切ったように「さよなら!」「お疲れさん!」と連呼しました。

そんな時代でした。

2013年11月23日 (土)

1985年(昭和60年)10月27日のモノクロネガより「午後の広電宮島駅」《後編》

市内から直通運用中の3501が到着しました。

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3501は、もちろん最新鋭の電車でしたが、デザインもさること、両手ハンドル、セミクロスシート、エアコン装備、エアサス台車、電気笛、そして、カルダン駆動はもとより当時鉄道業界ではハシリのチョッパ制御など、衰退傾向の路面電車業界においては、群を抜いた装備で、近未来の電車というイメージでもありました。
日本鉄道技術協会の開発委員会が研究開発を行ったこの3501は、開発当初は2車体連接で設計されてたそうですが、当時、3車体連接を推進していた広電からの要望で急遽3車体になったそうです。中間のC車分が重量増加になっており、その分、当初設計段時の加速度より低くなってしまったようです。たしかに加速がかったるい感じがしてました。

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直通運用中の3003と3004の並びです。正に3000形全盛の時代でした。

画面右奥に見えるプレハブは乗務員さんの休憩所でした。

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3005と3002の並び。同じ3000形ですが、西鉄から購入した種車の違いから、この3005だけは角ばった顔をしています。

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鉄道線内の運用に入っている2511・2512が西広島から戻ってきました。

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この頃は引退間近で、直通運用に入ることはありませんでした。

それにしてもこのクラシックな外観は、どう見てもオリジナルの2500形とは全然違います。別形式としても良かったように思いますが、あえて2500形としたことの意図は何だったのでしょうか。

ちなみに、大阪市電1601形から改造された2511・2512と2513・2514の2編成について、その生いたちやデザインから当時私が大変興味を持った電車でした。

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最新鋭形式の3700形3701が到着。この約1年前に3701落成により2513・2514が淘汰されました。また、3702が登場すれば2511・2512の引退も決まっていました。

右端に見えるのは3007。

2511・2512が発車準備をしています。ドアから車掌さんが頭をのぞかせて乗降確認をおこなっているのが分かります。なぜ窓からではなくドアからなのかと言うと、この大阪市電から改造をした2511・2512と2513・2514には車掌台に窓が無かったのです。当然当時の車掌さんからは嫌われた電車でした。乗務する電車がこれらだとわかると、「ちぇっ、大阪じゃ」と、嘆いてたそうです。

最後の”大阪”2511・2512を夢中で追っかけてた1985年(昭和60年)10月27日。すでに3702の製作がメーカーで始まっており、12月には落成が予定されていました。

2013年11月17日 (日)

1985年(昭和60年)10月27日のモノクロネガより「午後の広電宮島駅」《前編》

あの頃よく広電宮島駅(現在の広電宮島口)に通ったものです。

この日は昼からだったと思います。

この頃になると車庫で休んでることの多かった、引退間近の元大阪市電1601形から改造の2500形2511・2512が鉄道線内の運用に就いていました。

鉄道線内運用のダイヤは、平日だとデータイムでは広電西広島ー広電廿日市間でしたが、日祝ダイヤでは広電宮島まで足を延ばしていました。なお、当時は市内との直通電車と交互にダイヤが組まれていました。

運転士さんにお願いしてライト点灯。

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ツリカケサウンドを響かせ広電西広島へ向けて発車して行きました。と、なぜか後部側ライトも点灯していました。??

前方の留置線にオリジナルの2500形2編成の姿が見えます。

次は当時直通電車の主力3000形3008と最新鋭3700形3701の並びです。

ちなみに、この約1年前、3701の落成により、2編成いた元大阪市電1601形から改造の2500形のうち、2513・2514が廃車となりました。

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この3008は今も明治製菓の広告が入っています。3000形に車体広告が入ったのはこの頃からですが、おそらく3008は一貫して明治製菓ではないでしょうか。

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元西鉄車3連接化改造の3000形トップナンバーとラストナンバーの並び。3000形全盛時代を象徴するシーンです。

なお、線路内から撮影していますが、職員立会いによるものです。
「正面から撮りんさいや、見よってあげるけえ。」との職員の方のお言葉に甘えたものですが、当時は違和感ないことでしたが、今だとNGでしょうね。

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かつての主力2500形2505・2506と主力の3000形3001の並び。

この頃になると、3連接車の増加で2連接車の2500形は少々影が薄くなっていました。たしか、1部の編成は既に3連接化改造(3100形)の準備に入っていましたか。

次は、駅構内の外れにある留置線に移動しました。

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留置線で待機中の2500形2507・2508と2509・10。冒頭の2511・2512発車シーンに写っていた2編成です。夕刻からの運用に入るためなのか、特発用だったのかは分かりませんが、この頃の2500形はデータイムには休んでることが多かったように思います。
(駅側から撮影)

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上記画像とは反対側から駅方向を向いて撮影。

画面左端に宮島タワーが見えます。当時、広電宮島ガーデンと呼ばれる土産物などのショッピングセンターに併設された地上60mの回転式展望台でした。老朽化に伴い、1997年に施設がリニューアルされる際に解体されました。

続きは《後編》にて記載いたします。

2013年11月 3日 (日)

”大阪”に熱中した85年秋。~広電2500形2511・2512(元大阪市電改造)~

久々の更新となりました。平日はなかなか時間がとれず、休日は撮影が忙しく少々大着をしてしまいました。

さて、すっかり秋らしくなり、夕方になるとうら悲しい雰囲気になります。そんな雰囲気に浸っていると高校3年の秋の日の夕方、引退間近の元大阪市電改造2500形2511・2512を追っかけてた頃のことを思い出しました。

同世代の方ならご存知でしょうが、かつて宮島線と市内線との直通車両の主役であった2500形のうちの最終グループに、新造車ではなく、大阪市交通局より購入した1601形のうち4両を、2両背中合わせに連接化のうえ装備も換装して既存の2500形に編入した2編成が存在しました。車号はオリジナルの2501~2510に続き、2511~2514(2511・2512と2513・2514)。なお、当時の車号は永久連接車でありながら、1編成で車体毎に連番が与えられていました。

学校から帰路の山陽線車窓から、宮島線を走る2511・2512の姿が見えました。「あ、”大阪”がはいっとる!!」。

既にこの頃は市内への直通運用はなく、予備車的な存在でしたが、当時存在した西広島ー廿日市間(日・祝は宮島)の運用に時々入ってました。2513・2514の方はこの約1年前、3700形3701の登場で廃車となっており、この2511・2512についても、3702の落成が12月に予定されており、その落成とともに引退が予定されていました。

急いで家に帰るとカメラを持ち出し廿日市駅へと自転車を飛ばしたのでした。

駅に着くと折り返し西広島行きとして発車を待っていました。

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駅長の「発車!」という声が駅の方から微かに聞こえると、「ポッ」という短笛を鳴らしこちらへ向かって動きだしました。ちなみに、当時は発車の際には警笛を鳴らしていました。そういえば国鉄の列車も鳴らしていましたね。

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後ろからも1枚。レンガ造りの変電所の姿が見えます。
ゆっくりとポイントを渡り、上り線へと転線。ポイントを過ぎると元気よくツリカケ音を響かせて一気に加速していきました。「ん~、いい味だしとるなあ」なんて感じたもんです。

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それから約1時間後、また戻って来ました。
今度は発車間際、ライトを点灯してもらえました。

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さらに1時間、今度は廿日市駅から東方へ移動して待ちます。

西陽を浴びながら元気よくやってきました。

目の前辺りからブレーキを一気にかけます。「ウーン」というツリカケ特有の電制(電気ブレーキ)の音が秋空に響きました。

2013年9月11日 (水)

活動報告 ~リバイバル急行ちどり~

広島県デスティネーションキャンペーンの一環で、かつて広島と米子を結んでいた急行「ちどり」を2週にわたり土日に復活運転された、リバイバル急行ちどりを撮ってきました。

現役時代のキハ58・28は既にいないため、キハ48を国鉄色にラッピングして走らせるという、”なんちゃってちどり”ということで、正直あまり期待してませんでしたが、その姿は意外や意外、往時を偲ばせるには充分であったと思います。

今回の撮影でのポイントは、国鉄色、ヘッドマーク、そして何といっても、芸備線という自然に恵まれたロケーションを活かした撮影ですかね。

9月7日は三次行のみ撮影。狩留家の三篠川の鉄橋へ。

あいにくの曇り空。

約2時間前に現地へ着くと、鉄橋の側には既に大勢の同業者が。

山や川、鉄橋を入れ、国鉄色を横っ面から撮ろうと広めのレンズで川面ギリギリの場所で構えました。

今回の運転中、初めて見たナマの姿。国鉄色は想像以上に映えました。

この日はこれにて撤収。しばらくして雨が降り出しました。

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9月8日、午前の三次行は中三田の近くへ。

朝から天気は回復。晴れ間を走る姿を期待しましたが残念ながら直前に曇りました。

それにしても国鉄色が風景によく馴染みます。

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返しの広島行は正面からヘッドマークに迫ります。

場所は狩留家駅のすぐ近く。

最後の最後にようやく晴れました。

晴れると一層国鉄色が映えます。

今回、急行表示も重要なポイントですね。

ちどりマークですが、よく見るとちどりの目がありません。

ホロが付いているとまた違った顔つきになりますね。

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やはり国鉄色は良いですね。芸備線には特に良く映ります。

あっという間に4回の運転は終了。

しばらく国鉄色で走ってもらいたいものですが、そうもいかないのでしょうね。翌日、早速新山口へと回送されたようです。

2013年9月 8日 (日)

夏の想い出 ~昭和57年夏、金星、なは、みずほ・・・~

夏の想い出といえば、やはり早朝の列車ですが、「金星」や「みずほ」も広島を5時台に下っていましたから、やはり広島では夏場でないと走行写真は難しい列車でした。

昭和57年(1982年)7~8月にかけての記録で、いずれも撮影場所は廿日市-宮島口(現在の廿日市-宮内串戸)です。

昭和57年夏は、11月改正で姿を消す「金星」にとっては最後の夏でもありました。

中学3年だった当時、私も一応は高校受験を控えた身で、カメラをぶら下げて活動することには、それなりに後ろめたさを感じてはいましたが、自宅前を走る「金星」をただ指をくわえて見送るなどということは到底できず、親がまだ寝ている隙に父親のミノルタSRT101を持ち出し家を抜け出したものです。

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田んぼの匂い、蛙の鳴き声。

時刻は6時前。朝焼けの中、三つのライトを輝かせてやって来る白に青のツートン。長年見慣れた姿で、見るたびに幼い頃に見た昼行特急時代の記憶を彷彿とさせるものでした。

この日のクハネ581は、タイフォンカバーがスリットタイプの初期型。手を振ると直前でタイフォンを鳴らし応えてくれました。

閉じられた回転式ブラインド(通称:ベネシャンブラインド)、小窓の並ぶグリーン車のサロ、営業はしていないものの食堂車のサシも連ねた、堂々の12両編成。その優雅な姿に暫し酔いしれたものです。

21M「金星」名古屋発博多行。広島を5時35分発、廿日市を5時48分くらいに下っていました。
ちなみに、この頃の「金星」は、次の宮島口に停車する唯一の特急で、これは、昭和53年10月改正で廃止となった「安芸」に代わるもので、「金星」廃止後は「あさかぜ」へと引き継がれました。
宮島口に停車している光景など撮っておけばよかったと後悔しています。

この頃になると、カメラやフィルムなどの機材にも興味を持ち始め、「金星」の最期にはと奮発し高価なリバーサルフィルム、コダック200(ED)やフジクローム400(RH)を使いました。

ここから下の画像は、キャノンAE-1プラスプログラムに300ミリ望遠レンズで撮ったものです。当時発売されたばかりのカメラでプログラム機能搭載のハシリだったカメラです。といっても自分のではなく写真部のカメラとレンズで、元担任の先生が写真部の顧問で、最期の「金星」を撮りたいことを説明して貸出を許可してもらったのでした。

フィルムは当時としては高感度400のリバーサル、フジクロームRH。中学生の小遣いで買うには高価でしたから、20枚撮りでがまんです。もっとも、モータードライブはありませんからそんなに不足は感じませんでした。

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編成全体を順光で撮りたい。

正面からはどうしても逆光となるため、廿日市を西に少し進んだところにある平良の踏切で、後ろ姿を捉えました。ただ、この日はあいにくの曇り空。解放F5.6の300ミリは暗く、感度400でSSは250分の1。それでも少々アンダーぎみでした。

運転席に座っている車掌氏の白い制服姿に当時の優等列車の貫禄を感じます。

背景の山はその後、市のスポーツセンターが建設され、姿を消しました。まだ線路上にトラロープはありません。

当時広島を通る夜行列車は、東京か関西と九州方面を結んでいる中で、「金星」だけが名古屋発着であり、また、走行写真の撮れる唯一の電車寝台であったことから、私の中では特別な存在でもありました。

当時はまだブルトレブームの直後で、私の通っていた中学の同級生たちも小学生時代はみんなにわか鉄ちゃん。なので、「金星」の存在はよく知られていましたから、昭和57年11月改正で姿を消すことが公表された時は、同級生の間でもそれなりに話題となりました。

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「金星」を撮って友達と線路伝いに歩いていると、定期では通過する列車がいないはずの時刻に踏切の警報機が鳴り始めました。

「あれ?、何が来るんじゃろ?」

宮島口方のR400のカーブを抜け出してきたのは遅れてきた上りの「なは」でした。

とっさのことで尻切れとなる始末。

28M西鹿児島発新大阪行「なは」。所定なら廿日市を4時15分過ぎに上ってましたから、本来撮影は不可能な列車でした。

この「なは」は下りも深夜に通過しており、とても縁遠い印象の列車でした。

ライトが点いてませんが、当時昼間帯はトンネルを除き消灯することとなってました。

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「みずほ」が下ってきました。これも遅れていました。「金星」が定時で来たということは名古屋以東での障害だったのでしょう。

なぜか機関車側は撮っていません。記憶にありませんが、逆光なのでパスしたのでしょうか。

6レ「みずほ」東京発、前側8両が熊本行、後ろ側6両が長崎行のB寝台はオール3段寝台時台の14系で組成された14両編成。食堂車とA寝台は熊本編成に付いてました。もちろん食堂車は営業していました。

編成最後部と編成中間あたりの車両スハネフ14に搭載されたディーゼル発電機から勢いよく青白い排気ガスが吹きあげられています。

当時、「なは」、「みずほ」が姿を消すことなど全く想像もしていませんでした。

ディーゼル発電機の音、排気ガスの臭い、そして、田んぼの匂い、蛙の鳴き声。
朝の記憶として今でも鮮明に残っています。

2013年8月17日 (土)

夏の想い出 ~昭和58年8月、朝の記憶~

夏といえば、早起きして早朝の列車を撮ったものです。今も変わっていませんが。

昭和58年(1983年)8月、ちょうど高校へ入学して初めての夏休みの記録です。

いずれも、廿日市ー宮島口(現在の廿日市ー宮内串戸)にて撮影したものです。

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荷33レ EF5893「浜」

最初に撮ったのは汐留発熊本行、荷33レ。浜松のゴハチが下関までロングランしてくる運用でした。広島を5:27に発車し、西広島にも停まってました。

ゴハチに夢中だった頃でしたが、どうも浜松のゴハチは正面窓が黒Hゴム支持化され、しかも、いつも薄汚れているという印象からあまり好きではありませんでした。

でも、この日は朝日を浴びて輝く車体がなんとも美しく、ついカメラを向けたのでした。
右手前に光る線路は広電宮島線。

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荷2030レ EF58163「浜」

荷33レが通過するとすぐに上ってくるのが荷2030レ東小倉発青森行でした。この列車と荷33レは廿日市ー宮島口間ですれ違っていました。

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7レ 「富士」

宮崎行「富士」のテールを撮影。ここから宮崎まではまだ9時間半近くかかっていました。

それでもこの頃はまだ、辛うじてファンじゃなくてもニーズがあったようです。

慌ただしそうな車内の様子や、洗面所で使用された排水が線路にタレ流され、朝はバラスが
びしょびしょに濡れていた光景が懐かしいです。

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EF6078「広」

この貨物は富士とあさかぜ51号の間に撮ってますので、当時のダイヤグラムから推測すると3252レというスジだと思います。

EF6078は広島区のEF60の中で何両かいたヘッドライトがブタ鼻化されたうちの1両で、このタイプが来るとがっかりして撮らないことも多かったのですが、おそらくレム5000が付いてたので撮ったのでしょう。ちょうどレム5000の廃車が急速に進んだ頃でした。

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8011レ「あさかぜ51号」

多客期になると運転された20系客車使用の臨時列車でした。

この日は、たしかこの列車が一番のターゲットだったと思います。

まだちゃんと白帯が3本揃っていますが、晩年は上側の1本が省略されました。

ちなみに、牽引機はEF65PF(東京区でしたか?)でしたが、ヘッドマークは取り付けられませんでした。

昭和58年の夏といえば、夏の甲子園でPL学園のK・Kコンビといわれた清原・桑田が全国に名を馳せたのも、この夏でした。

2013年8月11日 (日)

夏の想い出 ~軽快電車 広電3500形3501~

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82.7広電廿日市-宮内 3501

チョッパ制御、カルダン駆動、冷房装置搭載、空気バネ台車、クロスシート・・・。

今では想像できないくらい、当時はとにかく最新の電車というか、近未来を先取りした路面電車というイメージでした。たしか、路面電車復権を試みて、当時の日本鉄道技術協会が開発し、”軽快電車”という名前がつけられていました。

なので、広電にはほとんどカメラを向けなかったのですが、この3501だけは珍しさもあってカメラを向けてました。たしか、毎日ほぼ同じダイヤで運行していたように思います。

この画像も待ち構えて撮ったもので、真夏の日差しがジリジリと暑かったのをよく覚えてます。

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85.8宮内-地御前 3501

日本鉄道技術協会から広電が購入した後も、結局増備されることはなく、3500形は3501の1編成だけとなりました。

夏空の下を音もなく軽快に走って行く姿は、まさに”軽快電車”そのものでした。





2013年7月23日 (火)

夏の想い出 ~わんぱく列車~

地元紙、中国新聞社が夏休みになると小学生を対象にした自然とのふれあいをテーマにした日帰りツアー、「わんぱく列車」を運転していました。

車両はキハ58系列が使用され、運転区間は錦町コース(岩日線(のちに錦川清流鉄道))、三段峡コース(可部線)、羽須美コース(三江線)、の3コースで、いずれも山陽線の所定駅から子供たちを乗せ、各非電化区間へ入線するというものでした。

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84.7廿日市-宮島口

当時、キハ58は山陽線でもけっこう団臨などで見られたため、さほど珍しい存在ではなかったのですが、カン付きということで撮っていたのだと思います。

1枚目の画像は錦川コースでしょうか。車内では子供たちの楽しそうな声が響いていたことでしょう。よくその子供たちが楽しそうな笑顔でこちらに手を振っていたのを思い出します。

少し解りずらいですが、3両目のキハ28の冷房装置が初期型の角ばったタイプを載せています。

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85.7 廿日市-宮島口

2枚目の画像は三段峡か羽須美のいずれかのコースでしょう。

これらの列車は、各非電化区間では定期列車との併結も行われていたようで、普段見られない長大編成が実現していたようです。それを記録していないのが少々悔やまれます。

夏休みになると定番列車として走っていたわんぱく列車ですが、いつの頃からか徐々にバスへと移行し、最終的にはバスに完全移行し、名称も変わっているようです。

いまでも車内の楽しそうな子供たちの姿が懐かしく思い出されます。

あの子供たちも今ではお父さんお母さんとなっていることでしょう。そして、わんぱく列車の想い出も記憶の片隅に楽しい想い出として焼きついていることでしょう。

2013年7月21日 (日)

夏の想い出 ~広電1070形~

元阪急500形の1070形が宮島線の主力として活躍していた1985年夏の記録から。

平日のデータイムは広電西広島-広電廿日市間を運行していましたが、平日でもラッシュ時と日・祝日は宮島まで足を延ばしていました。

1070形はツリカケ駆動の音が重低音で特徴的でした。

また、私が物ごころついた頃にはすでに宮島線の主力として4編成存在しており、宮島線のヌシのような存在で、大きな車体はいかにも鉄道線車両という感じでした。
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1985.7 1073+1074 宮島線 平良-宮内

夏休みに入ってすぐの頃、広電の車両にもカメラを向け始めた頃です。
1073+1074が広電唯一のトンネルを飛び出してきました。
朝ラッシュの宮島発広電西広島行。

塗りなおされたばかりの車体が朝日を浴びてピカピカでした。

窓が開放され特徴的な陽よけのヨロイ戸が全部降りてます。

ツリカケの良い音を響かせ、大きな車体を揺らしながら元気よく上って行きました。
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1985.6 1071+1072 宮島線 宮内-地御前

1070形の大きな車体を真横から狙ってみようと、干上がった御手洗川に降りました。
立っている場所は山陽本線の鉄橋の下。列車が来ないか気にしながら。。
というのも当時の列車はまだ大半がタレ流しでしたもので。(笑)
手前左側の影は私の影です。

広電西広島方面行きの1071+1072が勢いよく通過して行きました。間もなく宮内。

窓が開け放たれた車内は、心地よい夕方の匂いがする風が吹いていたことでしょう。

夕陽を浴びて波打った老体がギラリと光りました。

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