可部線73・79形最期の秋~1984年(昭和59年)10月の記録より~
国鉄末期は旧型と呼ばれる車両から新性能とよばれる車両への置き換えが一気に進展した時期でした。
EF58の最期を夢中で追いかけた1984年(昭和59年)2月の改正も一段落したその年の秋、今度は可部線にこれまでごく普通に馴染んでいた73・79形旧型国電が、いよいよ最期を迎えていました。
今月限りに迫った1984年(昭和59年)10月最後の日曜日と、最終日の31日の記録です。
高校1年だった当時、早朝より可部線に乗り上八木の鉄橋へ行きました。
最後の日曜日で、しかもこの場所は当時よく知られていましたが、同業者は到着時点では私だけでした。今なら絶対”激パ”になってることでしょう。
到着するや、上八木側から鉄橋へ駆け上がってくる築堤で構えます。
澄みきった秋空にツリカケの音色を響かせ、クモハ73・クハ79形が全力で築堤を駆け上がって来ます。
この2両の組み合わせが基本で、各形式10両づつ、計20両がいて、10組の編成がいました。
(だったと思う。)
こちらは、基本編成×2本の組み合わせ。現在の105系も同様の運用となっていますね。
73・79形の2形式だけといっても、旧63形の特徴をよく残したものから全金属化改造されたものまで多種多様な顔や姿が見られました。この個性豊富なところが旧型の特徴ですね。
撮影をしていると、途中からやって来て仲良くなったお兄さんに、「可部駅構内の踏切から並びを撮らないか。クルマに乗せてやるよ。」と言われ、可部駅まで乗せてもらいました。
可部駅の踏切に着くと、ちょうど快速「三段峡観光」号が到着しました。行楽シーズンには恒例の臨時列車で、広島ー三段峡間を休日に1日1往復してました。
さすがに駅のホームには同業者の姿がありました。
この場所に来ることは想定しておらず、望遠レンズを持ってくればよかったと後悔しました。ちなみに、2枚とも50ミリ標準レンズ(もちろんフィルムカメラ)で撮ってます。2枚ともかなりトリミングしてます。
そういえば、当時の可部線は腕木信号機でした。また、全線でタブレットも使用されていましたね。なんだか、すごく歴史を感じてしまいます。自分も歳をとったもんだ。(苦笑;)
それにしてもこの場所、もっと通っておけば良かったと後悔しました。
ふたたび太田川鉄橋へ。
線路の反対側から鉄橋上を走る姿を捉えました。
背景の山の麓を芸備線が走っていて、可部線と芸備線が最も接近する場所で、その姿が遠くに見えました。
やはり、それぞれ違った顔をしていますね。
この頃には既に105系も入線していたはずですが、この日はフィルムをケチったのか記録していません。何せ当時は高価だったエクタクロームですからね。最終日の撮影にも取っておかなければならなかったもので。
たしか、夏ごろから105系との置き換えが始まっていたと思います。
そして、いよいよ73・79形最終日の10月31日を迎えます。
もちろん、平日ですから学校があります。当日は学校へカメラ持参で登校。授業が終わると急いで列車に乗り広島駅へ向かい、”さよなら”列車を迎えます。
可部からの”さよなら”列車742Mが15:25、4番線に到着。
国鉄のJNRマークを型取った大きなヘッドマークを付けてもらっていました。
マークが付くことは事前に知っていたか否か記憶にありませんが、当時は最終定期列車に”さよなら”マークが付けられるのは定番でした。
広島駅はそれなりに同業者の姿は多いものの、平日とはいえ今じゃ考えられないほど平穏なものでした。
まずは人の少ない後ろ(可部側)からクハ79を撮影。前の方に多くの同業者が見えます。
アルミバッグを肩にかけた人が写ってます。当時の鉄ちゃんの標準装備です。5番線には瀬戸内色の新鋭115系3000番台も見えます。瀬戸内色は当時3000番台の特徴でした。(一部、3000番台のクハと組んだ111系モハに瀬戸内色化したものがいましたが)
2番線東方突端に移動し、約5分後、広転へ引き上げる姿を撮影。
脇にDE10が見えます。当時、多く存在した客車列車の広島駅と広転との移動をエスコートしたり、芸備線の客車列車を担当していました。たいていどこかのホームの突端あたりの留置線で休んでいました。
最後に後ろ姿を撮影。
広島駅構内に最後のツリカケ音が響きました。
誰かが「さよなら!」と叫びました。
その声につづき、周りのみんなも堰を切ったように「さよなら!」「お疲れさん!」と連呼しました。
そんな時代でした。











































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